原忠一
原忠一(原 忠一,はら ちゅういち,1889年3月15日-1964年3月17日),大日本帝国海军军人,最终军阶为海军中将。
原忠一 | |
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昵称 | 金剛(King Kong) |
出生 | 1889年3月15日 日本岛根县松江市 |
逝世 | 1964年2月17日[1] | (74歲)
效命 | 大日本帝国 |
军种 | 大日本帝國海軍 |
服役年份 | 1911-1945 |
军衔 | 海军中将 |
统率 | 栂号, 安宅号,龙田号 第四舰队,练习联合航空总队,第五航空战队,第八巡洋战队 |
参与战争 | 第二次世界大战 |
简历
原忠一出身于岛根县松江市,从岛根县立松江北高等学校毕业,海軍兵學校39期生,入学成绩为150名中第53名、毕业时149名中排名85。1923-24年就读海军大学校,期间曾做过学生长[2],与草鹿龍之介、山口多聞、福留繁等人同届。因为比起同龄人身材更高大,友人们将其戏称为金刚[3]。
珍珠港事件爆发之时,原以第五航空战队司令身份参加了战斗。日軍入侵法屬印度支那之际,出任第二支那派遣舰队参谋长。后指挥了珊瑚海海战。1944年盟军对特鲁克发动冰雹行动后,原接替被撤职的小林仁中将出任“第四舰队”司令,尽管如此,他实际上只是负责指挥陆地基地,手下并无战舰。但美军绕过了特鲁克,只是对其不断围困和空袭。原等人困在岛上孤立无援,直到战争结束。
战后原被捕受审,盟军指控其在特鲁克空袭时下令处决被击落的盟军飞行员,而对其判刑6年。原获释后随儿子居住在东京,此后为了给因战争罪行而获刑的军人争取抚恤金而活动[4]。他同时直到1964年逝世为止一直担任日本法務省顾问[5]。
履历
- 1889年(明治22年)3月15日- 岛根县松江市出生。
- 1901年(明治34年)4月1日- 岛根县立松江寻常中学(岛根县立松江北高)入学
- 1906年(明治39年)3月31日- 岛根县立松江寻常中学毕业
- 1908年(明治41年)9月14日- 海軍兵学校入校 入校時成績順位150名中第53位
- 1911年(明治44年)7月18日- 海軍兵学校毕业 毕业時成績順位149名中第85位・任海军少尉候补生,于一等巡洋舰阿苏号上服役
- 1912年(明治45年)3月29日- 战列巡洋舰伊吹上服役
- 12月1日- 任海军少尉,于战列舰摄津号战列舰上服役
- 1913年(大正2年)12月1日- 2等巡洋艦明石号上服役
- 1914年(大正3年)12月1日- 任海军中尉・海軍水雷学校普通科学生
- 1915年(大正4年)5月26日- 海軍砲術学校普通科学生
- 12月13日- 驱逐舰朝风上服役
- 1916年(大正5年)9月1日- 一等巡洋艦八云号航海士
- 1917年(大正6年)9月10日- 战列巡洋舰金刚上服役
- 1918年(大正7年)12月1日- 任海军大尉・海軍水雷学校高等科第18期学生
- 1919年(大正8年)11月28日- 海軍水雷学校高等科研修完成
- 12月1日- 海軍水雷専攻科学生
- 1920年(大正9年)12月1日- 一等驱逐舰羽风水雷長兼分隊長
- 1921年(大正10年)11月1日- 一等驱逐舰夕風水雷長兼分隊長
- 1922年(大正11年)12月1日- 轻巡洋舰大井水雷長兼分隊長
- 1923年(大正12年)11月10日- 海軍水雷学校教官兼分隊長
- 1924年(大正13年)12月1日- 任海军少佐・海軍大学校甲种第24期学生
- 1926年(大正15年)11月25日- 海軍大学校甲种毕业 毕业成績順位20名中第16位
- 12月1日- 二等驱逐舰栂舰长
- 1927年(昭和2年)12月1日- 第二舰队水雷参謀
- 1928年(昭和3年)12月10日- 第一水雷战队水雷参謀
- 1929年(昭和4年)11月30日- 任海军中佐・海軍水雷学校教官 兼 海軍砲術学校教官
- 1930年(昭和5年)6月1日- 兼 海軍通信学校教官
- 11月15日- 海軍水雷学校教官 兼 海軍砲術学校教官 兼呉海軍工廠鱼雷实验部员 (研究氧气鱼雷)
- 1931年(昭和6年)1月8日- 兼 海軍通信学校教官
- 1932年(昭和7年)12月1日- 炮舰安宅号舰长
- 1933年(昭和8年)10月20日- 转隶第十一战队司令部
- 11月15日- 任海军大佐 转横须贺镇守府
- 12月20日- 赴欧美各国出差
- 1934年(昭和9年)9月1日- 归国
- 11月1日- 轻巡洋舰龙田号舰长
- 1935年(昭和10年)11月15日- 旅順要港部参謀長
- 1937年(昭和12年)12月1日- 海軍省艦政本部員
- 1938年(昭和13年)9月15日- 海軍軍令部出仕 兼支那方面舰队司令部附 兼第五舰队司令部附 兼南中国特务部員
- 1939年(昭和14年)3月10日- 兴亚院调査官 厦门联络部
- 11月15日- 任海军少将、第二支那派遣舰队参谋长
- 1941年(昭和16年)8月13日- 转第一航空舰队司令部
- 9月1日- 第四舰队附第五航空战队司令官
- 1942年(昭和17年)7月14日- 第八战队司令官
- 11月1日- 任 海军中将
- 1943年(昭和18年)3月15日- 海军军令部出仕
- 5月18日- 练习联合航空总队司令官 兼 第十一联合航空队司令官
- 6月24日- 兼 第十二联合航空队司令官
- 1944年(昭和19年)2月1日- 兼 霞之浦海军航空队司令
- 2月16日- 免去 霞之浦海军航空队司令
- 2月19日- 第四舰队司令长官
- 1946年(昭和21年)3月15日- 转预备役
- 1949年(昭和24年)1月21日- 美国关岛军事法庭判处6年有期徒刑
- 1951年(昭和26年)4月19日- 假释
- 1964年(昭和39年)2月17日- 逝世 享年74
注释
参考文献
- 戦史叢書・第68巻 大本営陸軍部 大東亜戦争開戦経緯(2) (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第79巻 中国方面海軍作戦(2) (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第38巻 中部太平洋方面海軍作戦(1) (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第62巻 中部太平洋方面海軍作戦(2) (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 戦史叢書・第12巻 マリアナ沖海戦 (防衛庁防衛研修所戦史部編・朝雲新聞社)
- 草鹿, 龍之介, 連合艦隊参謀長の回想, 光和堂, 1979 - 1952年、毎日新聞社『聯合艦隊』、および1972年行政通信社『聯合艦隊の栄光と終焉』の再版。戦後明らかになった米軍側の情報などは敢えて訂正していないと言う(p.18)。
- 高松宮日記(細川護貞・阿川弘之・大井篤・豊田隈雄編・中央公論新社) ISBN 4-12-490040-6 C0320
- 高木惣吉日記と情報・上下巻(みすず書房) ISBN 4-622-03506-5 C3031
- 大井篤「統帥乱れて 北部仏印進駐事件の回想 」毎日新聞社、ISBN 4-620-30443-3 C0020
- 井上成美(阿川弘之著・新潮社) ISBN 4-10-300414-2 C0093
- 日本陸海軍の制度・組織・人事(日本近代史料研究会編・東京大学出版会)
- 海軍兵学校沿革・第2巻(海軍兵学校刊)
- 海軍兵学校出身者名簿(小野崎誠編・海軍兵学校出身者名簿作成委員会)
- Nishida, Hiroshi. Imperial Japanese Navy, Hara, Chuiichi. [2007-02-25]. (原始内容存档于2012-05-27).
- Goldstein, Donald M.; Dillon, Katherine V.; Wenger, J. Michael. The way it was: Pearl Harbor, the original photographs. Brassey's. 2001. ISBN 978-1-57488-359-6.
- Stewart, William Herman. Ghost Fleet of the Truk Lagoon: An Account of "Operation Hailstone", February 1944. Pictorial Histories. 1986. ISBN 0-933126-66-2.
関連項目
军职 | ||
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前任: 小林仁 |
第四艦隊司令長官 第三次编成 第6代:1944年2月19日 - 1945年9月2日 |
繼任: 舰队解散 |