本多熊太郎
生平
1895年进入日本外務省,1901年担任小村寿太郎秘书官,随行参加日俄战争朴茨茅斯和约缔结。在後藤新平担任满铁总裁时,担任北京市公使馆二等书记官。1918年担任日本驻瑞士大使,1921年担任日本驻荷兰大使和奥地利大使,1924年担任日本驻德国大使。[1]。1940年担任大日本帝国驻中华民国(汪精卫政权)大使。1944年担任東條內閣外交顾问。
参考来源
- ^ 平川 2011,第5頁; 戸澤 『RCK通信』
参考文献
- 『本多熊太郎関係文書』 高橋勝浩編、国書刊行会、2018年
- 平川, 均, 鹿島守之助とパン・アジア論への一試論 (PDF), SGRAレポート 58 (公益財団法人 渥美国際交流財団 関口グローバル研究会), 2011年2月15日, (原始内容 (PDF)存档于2014年11月29日)[失效連結]
- 戸澤, 英典, クーデンホーフ・カレルギーと鹿島守之助 (1), 東北大学大学院・法学研究科 公共政策大学院/法学部 教授 戸澤英典 研究室 『RCK通信』, [2014-12-18], (原始内容存档于2021-05-06)