藤原师辅
藤原师辅(日语:藤原 師輔/ふじわら の もろすけ Fujiwara no Morosuke */?,909年1月11日—960年5月31日),是日本平安时代中期的公卿。父藤原忠平,母为源能有之女源昭子。精通有职故实与学问,以右大臣的身份辅佐村上天皇开创“天历之治”。长女藤原安子为村上天皇中宫,生下后来的冷泉天皇和圆融天皇,为后日的藤原氏摄关家一脉的家主。
藤原师辅 | |||||||||||||||||||||
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日本贵族、右大臣 | |||||||||||||||||||||
右大臣 | |||||||||||||||||||||
國家 | 日本 | ||||||||||||||||||||
時代 | 平安时代中期 | ||||||||||||||||||||
主君 | 朱雀天皇、村上天皇 | ||||||||||||||||||||
姓名 | 藤原师辅 | ||||||||||||||||||||
位階 | 正二位 | ||||||||||||||||||||
氏族 | 藤原氏 | ||||||||||||||||||||
世系 | 藤原氏藤原北家九条流(家主) | ||||||||||||||||||||
幼名 | 大德[1] | ||||||||||||||||||||
其他名號 | 九条右大臣、坊城大臣、九条殿 | ||||||||||||||||||||
出生 | 延喜8年12月17日(909年1月11日) | ||||||||||||||||||||
逝世 | 天德4年5月4日(960年5月31日) | ||||||||||||||||||||
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日語寫法 | |
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日語原文 | 藤原 師輔 |
假名 | ふじわら の もろすけ |
平文式罗马字 | Fujiwara no Morosuke |
人物生平
有能之臣
藤原师辅为长年为官僚之首的摄政、关白、太政大臣藤原忠平的次子,有异母兄藤原实赖。虽然是次子,他亦少年时便官运亨通。延长八年(930年)左右,师辅密通醍醐天皇第四皇女勤子内亲王,后娶勤子内亲王为妻。这是日本古代史上第一次内亲王下嫁人臣。朱雀天皇在位的承平、天庆年间,藤原师辅累迁权中纳言[2]。
不久,东国武士平将门起兵,藤原忠文被任命为征东大将军,但还没来得及踏上征途,而平将门已伏诛。后来,朝廷论功行赏,师辅与其异母兄藤原实赖同在座,实赖认为藤原忠文实际上并没取得什么功劳,不应奖赏,而师辅不认同。他认为,判罚应从轻发落而赏赐则是越重越好,藤原忠文既然已经被封为征东大将军,就必须要奖赏。实赖固执已见,而当时的人们认为师辅的话才是长者该说的话[3]。
随后,师辅升大纳言,兼任右近卫大将,叙从二位。
人生登顶
天暦元年(947年)朱雀天皇让位皇太弟村上天皇,村上天皇的东宫妃正是师辅的长女藤原安子。师辅以岳父之尊,拜右大臣,进正二位。天历4年(950年)5月安子生皇次子宪平亲王,不久后此子即被立为皇太子。从此以后,师辅作为天皇直接外戚,比起其兄藤原实赖更掌实权,为村上天皇的治世“天历之治”的主导者。同时,在勤子内亲王薨后,师辅又尚其同母妹雅子内亲王,雅子内亲王薨后,再尚康子内亲王。这三位内亲王都是醍醐天皇的皇女,其中最后尚的康子内亲王还是醍醐天皇的嫡女,村上天皇的同母姐。师辅与皇室的关系非常亲密[4]。
师辅又编撰了新的年中行事法则和除目钞,编写日记《九历》[5]。
去世
天德四年(960年),师辅病重。天皇听说他有剃发出家之意,派遣使者前来询问。师辅自知病入膏肓,故请求能完成他出家的愿望。天皇说:“公虽病重,但只要好好调理,终会恢复。东宫年纪还小,无人教导,公难道能忍心出家不管吗?”但师辅仍连连上书,终于得以剃发出家。不久后于天徳4年5月4日(960年5月31日)薨,享年五十三岁。死前,对子孙留下了遗训,即《九条殿遗诫》[6]。
人物小像
官历
- 延長元年(923年) 16歳
- 9月5日 叙爵。
- 延長2年(924年) 17歳
- 2月21日 侍従。
- 延長4年(926年) 19歳
- 11月10日 昇殿(醍醐天皇)。
- 延長6年(928年) 21歳
- 6月9日 右兵衛佐。
- 延長7年(929年) 22歳
- 正月7日 従五位上。
- 延長9年(931年) 24歳
- 3月13日 右近衛権少将。
- 承平元年(931年) 24歳
- 閏5月11日 蔵人頭。
- 承平2年(932年) 25歳
- 正月27日 兼近江介。
- 11月16日 正五位下。
- 承平3年(933年) 26歳
- 正月12日 右近衛権中将。
- 承平4年(934年) 27歳
- 正月7日 従四位下
- 承平5年(935年) 28歳
- 2月23日 参議。
- 承平6年(936年) 29歳
- 正月29日 兼伊予権守。
- 承平8年(938年) 31歳
- 正月7日 従四位上。
- 天慶元年(938年) 31歳
- 6月23日 従三位権中納言(超过七个人)。
- 8月27日 昇殿(朱雀天皇)。
- 9月3日 兼左衛門督。検非違使別当。
- 天慶2年(939年) 32歳
- 12月27日 兼中宮大夫。
- 天慶5年(942年) 35歳
- 3月29日 大納言。
- 天慶7年(944年) 37歳
- 4月22日 兼春宮大夫(停中宮大夫)。
- 天慶8年(945年) 38歳
- 2月28日 兼按察使。
- 11月25日 右近衛大将。
- 天慶9年(946年) 39歳
- 正月7日 正三位。
- 4月28日 従二位
- 天暦元年(947年) 40歳
- 4月26日 右大臣。5月9日 昇殿(村上天皇)。
- 天暦4年(950年) 43歳
- 5月24日以前 修理職別当。
- 天暦9年(955年) 48歳
- 2月7日 正二位。
- 6月17日 辞右近衛大将。
- 天徳4年(960年) 53歳
- 5月4日 于九条府邸薨去。依其为已经出家的大臣,得到薨去的奏报后没有赠位。
亲属
参考资料
- ^ 《贞信公纪》
- ^ 藤原師輔。師輔,少歷清顯,承平、天慶間,累遷為權中納言,【公卿補任。】尚勤子內親王。【一代要記。】
- ^ 平將門反,征東大將軍藤原忠文未及接戰,而將門伏誅,朝廷論功行賞。時師輔與兄實賴同在座,實賴議曰:「忠文實無功,不宜賞。」帥輔曰:「不然。罪疑從輕,賞疑從重。彼既啣命出京師,不可不賞。」實賴固執不移,時論以師輔為長者之言。【古事談、十訓抄,參取源平盛衰記。】
- ^ 轉大納員,兼右近衛大將,敘從二位。天曆元年,拜右大臣,進正二位。【公卿補任。】勤子內親王薨,尚雅子內親王。未幾,內親王亦薨。又尚康子內親王。【一代要記。】
- ^ 嘗撰新撰年中行事、除目鈔。其日錄曰九曆。【仁和寺書籍目錄。】
- ^ 天德四年,師輔寢疾。帝聞其有剃髮之志,遺使問之。師輔自和不起,因陳請宿志。帝復諭之曰:「公疾雖篤,調攝得方,豈終不差。東宮幼沖,輔導無人。公何恝然遽欲剃度乎。」師輔連請,遂薙髮。【扶桑略記。】尋薨,年五十三。 【日本紀略、扶桑略記、公卿補任、尊卑分脈。】世稱九條院,或稱坊城。【公卿補任、尊卑分脈。】作遺誡一篇,以教子孫,行于世。【拾芥抄。】
- ^ 師輔寬綽敦雅,能容眾。雖久廢,問訊者,待之如初。是以父時賓僚多來歸焉。
以上参考资料出自藤原师辅在《大日本史》中的传记。
官衔 | ||
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前任: 藤原实赖 |
左衛門督 938年-942年 |
繼任: 藤原顯忠 |
空缺 上一位持有相同頭銜者: 藤原实赖
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陸奧出羽按察使 945年4月13日-947年5月19日 |
空缺 下一位持有相同頭銜者: 源清蔭
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前任: 藤原实赖 |
右大將 946年1月1日-955年7月9日 |
空缺 下一位持有相同頭銜者: 藤原顯忠
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右大臣 947年5月19日-960年5月29日 |