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天佐之子,須佐之德

中國帝王

年號

年號名 期間 年數 皇帝名 改元理由
中文 漢語拼音 始期 終期
洪武 hong wu 至正28年1月9日
1368年1月28日
洪武31年12月29日
1399年2月5日
31年 明太祖
明惠宗
建文 jian wen 建文元年正月1日
1399年2月6日
建文4年7月1日
1402年7月30日
4年
洪武 hong wu 建文4年7月1日
1402年7月30日
洪武35年12月29日
1403年1月22日
1年 明成祖
永樂 yong le 永樂元年正月1日
1403年1月23日
永樂22年12月30日
1425年1月19日
22年
明仁宗
洪熙 hong xi 洪熙元年正月1日
1425年1月20日
洪熙元年年12月30日
1426年2月7日
1年
明宣宗
宣德 xuan de 宣德元年正月1日
1426年2月8日
宣德10年12月29日
1436年1月17日
10年
明英宗
正統 zheng tong 正統元年正月1日
1436年1月18日
正統14年12月30日
1450年1月13日
14年
明代宗
景泰 jing tai 景泰元年正月1日
1450年1月14日
景泰8年1月21日
1457年2月15日
8年
天順 tian shun 景泰8年1月21日
1457年2月15日
天順8年12月29日
1465年1月26日
8年 明英宗
明憲宗
成化 cheng hua 成化元年正月1日
1465年1月27日
成化23年12月30日
1488年1月13日
23年
明孝宗
弘治 hong zhi 弘治元年正月1日
1488年1月13日
弘治18年12月30日
1506年1月23日
18年
明武宗
正德 zheng de 正德元年正月1日
1506年1月24日
正德16年12月30日
1522年1月27日
16年
明世宗
嘉靖 jia jing 嘉靖元年正月1日
1522年1月28日
嘉靖45年12月30日
1567年2月8日
45年
明穆宗
隆慶 long qing 隆慶元年正月1日
1567年2月9日
隆慶6年12月29日
1573年2月1日
6年
明神宗
萬曆 wan li 萬曆元年正月1日
1573年2月2日
萬曆48年7月30日
1620年8月27日
48年
泰昌 tai chang 泰昌元年8月1日
1620年8月28日
泰昌元年12月29日
1621年1月21日
1年 明光宗
明熹宗
天啟 tian qi 天啟元年正月1日
1621年1月22日
天啟7年12月29日
1628年2月4日
7年
明毅宗
崇禎 chong zhen 崇禎元年正月1日
1628年2月5日
崇禎17年12月30日
1645年1月27日
17年
明安宗
弘光 hong guang 弘光元年正月1日
1645年1月27日
弘光年閏6月29日
1645年8月20日
1年
隆武 long wu 隆武元年7月1日
1645年8月21日
隆武2年12月30日
1646年2月4日
2年 明紹宗
明昭宗
永曆 yong li 永曆元年正月1日
1647年2月5日
永曆15年4月15日
1662年6月1日
15年
元號名 期間 年數 天皇名 改元理由
漢字 読み 始期 終期
延元 えんげん 建武3年2月29日
(1336年4月11日)
延元5年4月28日
1340年5月25日)
5年 後醍醐天皇 建武の亂による改元。
後村上天皇
興國 こうこく 延元5年4月28日
(1340年5月25日)
興國7年12月8日
1347年1月20日
7年 後村上天皇即位による改元とみられている。
また神武天皇即位2000年を記念したものか。
正平 しょうへい 興國7年12月8日[1]
(1347年1月20日)
正平25年7月24日
1370年8月16日)
25年 天変や兵革による改元か。
長慶天皇
建徳 けんとく 正平25年7月24日[2]
(1370年8月16日)
建徳3年4月1日?
1372年5月4日?)
3年 長慶天皇即位による改元とみられている。
文中 ぶんちゅう 建徳3年4月1日?[3]
(1372年5月4日?)
文中4年5月27日
1375年6月26日
4年 災異による改元とみられている。
天授 てんじゅ 文中4年5月27日[4]
(1375年6月26日)
天授7年2月10日
1381年3月6日
7年 地震災害による改元か。
弘和 こうわ 天授7年2月10日[5]
(1381年3月6日)
弘和4年4月28日
1384年5月18日)
4年 辛酉革命による改元。
後亀山天皇
元中 げんちゅう 弘和4年4月28日
(1384年5月18日)
元中9年閏10月5日
1392年11月19日
9年 後亀山天皇即位および甲子革令による改元。
元中9年(1392年)、後亀山天皇が退位して南北朝合一が成った(明徳の和約)。元號は「明徳」に統一された。

56

  1. ^ 七巻冊子』は同年4月、『南朝編年記略』・『南朝公卿補任』は7月24日8月11日)、『続史愚抄』などは7月4日7月22日)とするが、全て誤りである。
  2. ^ 『南朝編年記略』・『南朝公卿補任』によるが、鴨腳本『皇代記』は同年4月22日5月17日)とし、『伊勢之巻』は1月21日2月17日)とする。また、村田正志は、『大徳寺文書』にある建徳元年2月5日(1370年3月3日)付の畠田売券を根拠として、當日以前に改元が行われたと指摘するが、この類の文書では恣意的に日付を遡及して記す場合もしばしばあったことを勘案しておく必要があろう(服部英雄 「未來年號考」 『古文書研究』第20號 吉川弘文館、1983年2月)。
  3. ^ 『南朝編年記略』・『続史愚抄』ともに同年10月4日10月30日)とするのは誤り。『七巻冊子』のみは3月22日4月26日)とするものの、確証を得ない。
  4. ^ 『南朝編年記略』・『南朝公卿補任』によるが、『七巻冊子』は同年2月上旬とする。
  5. ^ 『南朝公卿補任』によるが、『南朝編年記略』は同年2月14日3月10日)とする。