广岛新田藩
广岛新田藩(日语:広島新田藩/ひろしましんでんはん Hiroshima-shidenhan */?)是日本安艺国广岛藩的支藩,享保15年5月11日(1730年6月25日)创藩,明治2年12月26日(1870年1月27日)废藩,表高是30,000石,均为藏米知行,江户藩邸上屋敷位于青山隐田,文久3年(1864年)12月移居至安艺国高田郡吉田(吉田阵屋)[1][2][注 1]。
广岛新田藩 | |
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日语汉字 | 広岛新田藩 |
平假名 | ひろしましんでんはん |
罗马拼音 | Hiroshima-shidenhan |
创藩日期 | 享保15年5月11日(1730年6月25日) |
创藩理由 | 内分分知 |
大名家 | 浅野家 |
伺候席 | 柳间 |
石高 | 30,000石 |
藩邸 | 青山隐田(上屋敷) |
废藩日期 | 明治2年12月26日(1870年1月27日) |
历史
作为安艺广岛藩一旦没有继嗣而面临废藩危机时的后备的备后三次藩在享保5年(1720年)废藩后,广岛藩藩主浅野吉长在享保15年(1730年)3月向江户幕府请求内分分知予其弟浅野长贤,同年5月11日(6月25日)获准,称为青山浅野家。广岛新田藩的表高是30,000石,为定府大名,江户藩邸设于青山隐田,伺候席则是柳间[1][2]。
延享元年9月25日(1744年10月30日),长贤死去,由其嫡子浅野长乔继位。明和6年12月12日(1770年1月8日)[5],长乔死去,广岛藩藩主浅野宗恒三子作为其养子而继位,即浅野长员继位。翌年7月,长员就任为近江守,此后历任藩主均自称为近江守。宽政12年9月10日(1800年10月27日),长员致仕,由长乔之子继位,即浅野长容[1][2]。
文政7年6月17日(1824年7月13日),广岛藩藩主浅野重晟之子浅野长懋九子作为长容养子而继位,即浅野长训。安政5年11月4日(1858年12月8日),由于广岛藩藩主浅野庆炽死去,由于他没有嗣子,因此由浅野长训继位,广岛新田藩则改由浅野长懋之子浅野懋昭的长子继位,即浅野长兴。文久2年12月12日,长兴成为长训养子,广岛新田藩由长训之弟浅野懋绩四子,即长兴堂弟浅野长厚继承。文久3年(1864年)12月,由于长厚被幕府下令回去广岛藩,他便定居于安艺国高田郡吉田(吉田阵屋)。明治2年12月26日(1870年1月27日),广岛新田藩在版籍奉还后并入广岛藩[1][6]。
历任藩主
家名 | 家格 | 名称 | 石高 |
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浅野家 | 外样 | 浅野长贤 | 30,000石 |
浅野长乔 | |||
浅野长员 | |||
浅野长容 | |||
浅野长训 | |||
浅野长兴 | |||
浅野长厚 |
注解
参考资料
- ^ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 后藤阳一. 広島新田藩. 木村础、藤野保、村上直 (编). 藩史大事典 中国・四国編 6 POD版. 雄山阁. 2002-04-15: 316–317. ISBN 4-639-10034-5 (日语).
- ^ 2.0 2.1 2.2 岩本润一. 広島新田藩. 藩主人名事典编纂委员会 (编). 三百藩藩主人名事典 3. 新人物往来社. 1987-04-10: 610–611 [2024-08-04]. 国立国会图书馆书志ID:000001879214. (原始内容存档于2024-08-04) (日语).
- ^ 上屋敷 マップ. 人文学开放数据共同利用中心. [2024-08-07]. (原始内容存档于2022-08-15) (日语).
- ^ 竹内理三、北原进、杉山博、竹内诚、所理喜夫、西垣晴次、渡边则文、甲斐英男、坂本赏三、土井作治 (编). 吉田〈安芸高田市〉. 角川日本地名大辞典 広島県. 角川日本地名大辞典 34 日本文学Web図書館. 角川书店. 1987-03-08. ISBN 4-040-01340-9 (日语).
- ^ 浅野長喬. kotobank (日语).
- ^ 菊地明. 広島新田藩. 新人物往来社 (编). 三百藩戊辰戦争事典 下. 新人物往来社. 2000-01-25: 167. ISBN 4-404-02822-9 (日语).