略歷
在天正5年(1577年)的中國征伐期間,成為秀吉的側室[1],據說是被當時是清洲城城主的父親信包送出。生母長野氏在秀吉迎娶姬路殿為側室時,因為討厭身分低微的秀吉,曾一度被領回信包的宅邸[2]。雖然受到秀吉寵愛,不過沒有誕下子女。在寬永18年(1641年)5月8日死去。戒名是妙勝院殿性岩壽真大姉。
登場作品
相關條目
注釋
- ^ 『織田信包女年十四歳ノ時秀吉公へ御奉公ニ御出候然トモ御手カ、リ不申候』にあるように、もしも天正5年(1577年)に嫁ぎ、數え14歳と考えると永祿7年(1564年)に誕生したと考えられる。
- ^ 『信包の妻、身分上口惜しとて引取る』伊勢國司伝記より。
參考資料