廣瀨藩
廣瀨藩(日語:広瀬藩/ひろせはん Hirose-han */?)是日本出雲國能義郡廣瀨的藩[註 1],寬文6年4月29日(1666年6月1日)創藩,明治4年7月14日(1871年8月29日)廢藩置縣,石高在高峰期達30,000石,藩廳是廣瀨藩邸,在頓原町也設有陣屋,藩校是創建自享和元年(1801年)3月的漢學所、文化6年(1809年)和明治3年(1870年)的算術所、天保15年(1844年)8月的醫學所、明治3年的臨時醫學校和臨時皇學演習所,上述各藩校在明治4年正月22日(1871年3月12日)合併為修文館,人口是5,873戶26,350人[2]。
廣瀨藩 | |
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日語漢字 | 広瀬藩 |
平假名 | ひろせはん |
羅馬拼音 | Hirose-han |
創藩日期 | 寬文6年4月29日(1666年6月1日) |
創藩理由 | 分知 |
所在地 | 日本出雲國能義郡廣瀨 |
藩廳 | 廣瀨藩邸 |
大名家 | 廣瀨松平家 |
伺候席 |
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人口 | 26,350人 |
廢藩日期 | 明治4年7月14日(1871年8月29日) |
廢藩理由 | 廢藩置縣 |
武家屋敷方面,江戶藩邸上屋敷最初位於北本所,後為市谷本村和四谷門外,中屋敷(或下屋敷)位於四谷仲町,下屋敷最初位於大久保,後為河田窪和白金田島町,藏屋敷則位於京町堀兩國町[註 2][8][2]。
歷史
寬文6年4月29日(1666年6月1日),松平近榮獲其兄松江藩藩主松平綱隆分知30,000石,當時是沒有領地的藏米知行。天和2年2月10日(1682年3月18日),近榮由於越後騷動而被減封至15,000石,並且被處以閉門。貞享元年11月13日(1684年12月19日),改以能儀郡和飯石郡作為領地。貞享2年(1685年)2月,石清水八幡宮的舊領劃入為藩領,神門郡反部村的大部分則劃為石清水八幡宮的領地[註 3]。貞享3年7月12日(1686年8月30日),獲加增飯石郡內5,000石至20,000石,元祿7年5月14日(1694年6月6日)再加增10,000石至30,000石[2]。
寶永4年7月21日(1707年8月18日),廣瀨藩與松江藩訂下邊境分界。安永2年11月23日(1774年1月5日),美作津山藩藩主松平長孝次子作為松平近貞養子而繼位,即松平直義。天保12年(1841年),廣瀨藩在頓原町設置陣屋。嘉永3年9月9日(1850年10月14日),獲列為城主格。元治元年7月28日(1864年8月29日)和慶應2年6月19日(1866年7月30日),長州征伐先後兩次爆發,廣瀨藩均有奉命出兵[2][9][10]。
慶應4年2月1日(1868年2月23日),松江藩派使者向藩主松平直巳傳達松江藩勤王的方針,並且勸喻其離開江戶。同年2月6日(2月28日),直巳啟程返回領地,途中向有栖川宮熾仁親王請安,2月17日(3月10日)抵達京都,並且獲下令把守山崎關門[註 4][12]。
另一方面,山陰道鎮撫使西園寺公望則在2月4日(2月26日)進入鳥取城,並且在2月13日(3月6日)向廣瀨藩招降。廣瀨藩原本以藩主謹慎和首席家老岩崎廣勤切腹作為回應,不過被駁回。3月1日(3月24日),由岩崎廣勤代為宣誓勤王,直巳則直至4月6日(4月28日)才得已返回領地[12]。明治4年7月14日(1871年8月29日),廢藩置縣[2]。
歷任藩主
家名 | 家格 | 名稱 | 石高 | 藩領 |
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廣瀨松平家 | 親藩 陣屋 |
松平近榮 | 30,000石 ↓ 15,000石↓ 20,000石↓ 30,000石 |
藏米知行 ↓ 出雲國能儀郡和飯石郡
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松平近時 | 30,000石 | 出雲國能儀郡和飯石郡 | ||
松平近朝 | ||||
松平近明 | ||||
松平近輝 | ||||
松平近貞 | ||||
松平直義 | 出雲國能儀郡和飯石郡 ↓ 出雲國能義郡和飯石郡
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親藩 陣屋 ↓ 親藩城主格 |
松平直寬 | 出雲國能義郡和飯石郡 | ||
親藩 城主格 |
松平直諒 | |||
松平直巳 |
領地
令制國 | 郡 | 領地 |
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出雲國 | 能義郡 | 松井村、赤崎村、神庭村、月坂村、飯生村、植田村、新宮村、布部村、宇波村、廣瀨村、實松村、矢田村、利弘村、菅津村、野帳村、下田原村、岩舟村、奧田原村、東比田村、石原村、槙谷村、上山佐村、廣島原村、澤村、古川村、山形帳村、中島村、下田瀨村、祖父谷村、下山佐村、西比田村、町張村 |
飯石郡 | 野萱村、穴見村、志津見村、獅子村、上赤名村、下赤名村、長谷村、小田村、入間村、八神村、上來島村、下來島村、佐見村、都加賀村、真木村、竹尾村、角井村、頓原村、民谷村、大呂村、波多村、多彌村、花栗村、八幡村 |
註解
參考資料
- ^ 1.0 1.1 竹內理三、北原進、杉山博、竹內誠、所理喜夫、西垣晴次、內藤正中 (編). 広瀬・反辺. 角川日本地名大辞典 島根県. 角川日本地名大辭典 32 日本文学Web図書館. 角川書店. 1979-07-08. ISBN 4-040-01320-4 (日語).
- ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 內田文惠. 出雲国 広瀬藩. 木村礎、藤野保、村上直 (編). 藩史大事典 中国・四国編 6 POD版. 雄山閣. 2002-04-15: 101–113. ISBN 4-639-10034-5 (日語).
- ^ 竹內理三、北原進、杉山博、竹內誠、所理喜夫、西垣晴次 (編). 北本所町・表町・荒井町・番場町・太平・扇橋町・和倉町・冬木. 角川日本地名大辞典 東京都. 角川日本地名大辭典 13 日本文学Web図書館. 角川書店. 1978-10-27. ISBN 4-040-01130-9 (日語).
- ^ 上屋敷 マップ. 人文學開放數據共同利用中心. [2023-11-26]. (原始內容存檔於2022-08-15) (日語).
- ^ 5.0 5.1 安部晃司、陶木友治、仲藤里美. 中國 出雲 広瀬藩. 江戸三百藩 まるごとデータブック. 人文社. 2007-04: 109. ISBN 978-4-795-91750-7 (日語).
- ^ 加藤貴、鈴木靖、安藤優一郎、川崎史彥、久保貴子、豐田和平、村井文彥、吉田正高. 四谷仲町. 兒玉幸多、石塚裕道、小川信、北原進、坂誥秀一、段木一行、森田悌、吉原健一郎 (編). 東京都の地名. 日本歷史地名大系 13 JapanKnowledge. 平凡社. 2002-07-01. ISBN 4-582-49013-1 (日語).
- ^ 脇田修、內田九州男、相蘇一弘、今井修平、本城正德、渡邊忠司、藪田貫、村田路人、山口之夫、中尾芳治、服部昌之. 両国町. 直木孝次郎、森杉夫、大月明、河音能平、田代克己、戶田芳實、服部昌之、福島雅藏、三浦圭一、山口之夫、吉田晶、脇田修 (編). 大阪府の地名. 日本歷史地名大系 28 JapanKnowledge. 平凡社. 1986-02-07. ISBN 4-582-49028-X (日語).
- ^ 東京都 (編). 二 帝都(一). 東京市史稿 市街編. 東京市史稿 49 (東京都). 1960-03-25: 917–919 [2023-11-24]. 國立國會圖書館書誌ID:000001226894. (原始內容存檔於2023-11-24) (日語).
- ^ 今田昭二、大場薰、倉橋仁、田部越、永塚久守、井上寬司、內藤正中、野野村安浩. 広瀬藩陣屋跡. 山本清、內藤正中、井上寬司、島田成矩、田中義昭、原龍雄、藤岡大拙、藤澤秀晴、松尾壽 (編). 島根県の地名. 日本歷史地名大系 33 JapanKnowledge. 平凡社. 1995-07-10. ISBN 4-582-49033-6 (日語).
- ^ 松平直義. kotobank (日語).
- ^ 竹內理三、北原進、杉山博、竹內誠、所理喜夫、西垣晴次、有坂隆道、小林博、作道洋太郎、藤本篤 (編). 山崎. 角川日本地名大辞典 大阪府. 角川日本地名大辭典 27 日本文学Web図書館. 角川書店. 1983-10-08. ISBN 4-040-01270-4 (日語).
- ^ 12.0 12.1 富成博. 中国 広瀬藩. 新人物往來社 (編). 三百藩戊辰戦争事典 下. 新人物往來社. 2000-01-25: 141–142. ISBN 4-404-02822-9 (日語).
- ^ 第四部 近世 第一章 諸藩の成立. 新修島根県史 通史篇 1. 島根縣. 1968-03-15: 540–541. 國立國會圖書館書誌ID:000001226894 (日語).