矢桥藩
矢桥藩(日语:矢橋藩/やばせはん Yabase-han */?)是日本伯耆国八桥郡八桥的藩[注 1],庆长14年(1609年)5月创藩,元和2年(1616年)8月废藩,石高是21,300石,藩厅是八桥城[2]。
矢桥藩 | |
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别称 | 八桥藩 |
日语汉字 | 矢桥藩 |
平假名 | やばせはん |
罗马拼音 | Yabase-han |
创藩日期 | 庆长14年(1609年)5月 |
创藩理由 | 转封 |
所在地 | 日本伯耆国八桥郡八桥 |
藩厅 | 八桥城 |
大名家 | 市桥家 |
石高 | 21,300石 |
废藩日期 | 元和2年(1616年)8月 |
废藩理由 | 转封 |
历史
庆长6年(1601年),中村一忠在关原之战后凭其战功获加增至伯耆国175,000石,并且派中村一荣进驻八桥城[注 2]。庆长14年(1609年)5月,一忠由于在无继嗣的情况下死去而被改易,伯耆国一分为三,分别是加藤贞泰的米子藩、关一政的黑坂藩以及市桥长胜的矢桥藩[2]。
庆长15年(1610年)7月,长胜从美浓今尾藩以21,300石进驻八桥,石高涵盖其在河内国的领地。翌年,大坂冬之阵爆发,长胜跟随松平康重和冈部长盛参战,大坂夏之阵则在河内国的藩领星田村迎接德川家康,并且向其汇报战功。元和2年(1616年)8月,长胜获加增20,000石至越后三条藩,矢桥藩就此废藩。翌年,八桥成为鸟取藩的领地后由池田光政派重臣池田长明进驻。宽永9年(1632年),池田光仲入主后则改派津田元匡进驻八桥,容许其实施自分手政治[2][1]。
历任藩主
家名 | 家格 | 名称 | 石高 | 藩领 |
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市桥家 | 外样 城持 |
市桥长胜 | 21,300石 | 伯耆国八桥郡 河内国交野郡[注 3] |
注解
参考资料
- ^ 1.0 1.1 竹内理三、北原进、杉山博、竹内诚、所理喜夫、西垣晴次、丰岛吉则、松田晃幸、中林保、龟井熙人、井上宽司 (编). 八橋・八橋藩. 角川日本地名大辞典 鳥取県. 角川日本地名大辞典 31 日本文学Web図書館. 角川书店. 1982-12-08. ISBN 4-040-01310-7 (日语).
- ^ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 福井淳人. 伯耆国 矢橋藩. 木村础、藤野保、村上直 (编). 藩史大事典 中国・四国編 6 POD版. 雄山阁. 2002-04-15: 59–60. ISBN 4-639-10034-5 (日语).
- ^ 河手龙海. 八橋藩. 国史大辞典编辑委员会 (编). 国史大辞典. 国史大辞典 14 JapanKnowledge (吉川弘文馆). 1993-04-01. ISBN 978-4-642-00514-2 (日语).
- ^ 竹内理三、北原进、杉山博、竹内诚、所理喜夫、西垣晴次、有坂隆道、小林博、作道洋太郎、藤本笃 (编). 星田. 角川日本地名大辞典 大阪府. 角川日本地名大辞典 27 日本文学Web図書館. 角川书店. 1983-10-08. ISBN 4-040-01270-4 (日语).